運命を変えた雑誌の椅子の特集記事
今後はオーソドックスな椅子を丁寧にデザインしたい
「ヤマモト・レッジェーラ」、日本の軽量椅子のデザイン史に残る椅子の呼称のひとつだ。作者の山元博基さんが初めて椅子を作ったのは10歳の頃。椅子の生活への憧れがあって、建築端材で作ったのが最初である。その人生は椅子一直線ではなく、紆余曲折の連続。そんな山元さんの家具デザインの人生を伺います。
好きなことをやって人生送りたい
消去法で残った美術選ぶ
問 最初に椅子を作ったのは?
答 小学3年か4年生の時ですね。父の勤務先の小学校(北海道紋別郡豊野)の増築で出た端材で作ったのが最初です。その前はもっと山の中に住んでいたので、ストーブにくべる薪を鉞(まさかり)で削って角材にして、それで馬橇(ばそり)の小型版を作って雪の斜面で遊んだり、薪運びをしたりしていました。それが小学1年か2年の頃です。
問 子供心に将来はそっち方面にと・・・?
答 いいえ、中学時代は合唱部、高校時代(北海道・北見北斗高校)は吹奏楽部と音楽関係のクラブ活動をやっていました。吹奏楽部は入学式の時、保護者のために催された小さな演奏会を聴いた母が「かっこいいね。」と言っていたのと、クラスメートに誘われたのが入部のきっかけでした。そんなことをやりながら大学受験を控えた頃、中学時代の社会科の時間に「経済ってひとがコントロールできるんだ!」って思った瞬間があって、深い考えもなしに経済学部を受験、結果、浪人が決まりました。浪人が決まってから「音楽の世界へ行こうかしらん・・」と思った事もありましたが、正式にピアノを習った事も無く、同じ下宿で音大志望の同級生を見ていたので、今からでは無理って。音楽は趣味に留める事にしました。
問 なかなか定まりませんね。
答 そうですね。それから自宅で浪人生活をスタート、「大学出た後、何をやろうか」とかなり真剣に考えましたね。大学は4年で終わるけど、卒業後の方が遥かに永い人生の時間ですから。どうせなら好きな事をやって人生を送りたい、そのための大学にしたいと思った訳です。それで消去法で物理、数学が消え、体育が消え・・。残ったのは、やった事はなかったけれど美術でした。
問 専攻は?
答 美術でも油絵とか日本画、彫刻は就職が大変だろうなぁって思いました。公務員は考えられましたが、親とか親戚に学校の先生が多かったので、先生には最初からなる気がありませんでした。それでデザインだったら一般的な就職が出来ると思った訳です。
問 浪人中に方向転換?
答 「蛍雪時代」で美大のデザイン科を調べてみると、今ほどではありませんが、カタカナのいろんな科があり・・・チンプンカンプンでした。どうしたもんかとしばらく思い悩み、自宅の六畳間にひっくり返って天井を眺めていた時、急に「インテリア」という言葉が頭をよぎったんです。この天井を何とかするんだったら出来るかも・・・って。
調べてみると当時、多摩美の立体科にインテリアとプロダクト、造形大に室内建築、武蔵美は忘れましたがとりあえず多摩美のインテリアを目指す事にしました。それを決めたのは一浪中の6月です。その事を母に話し、父の了解を得て上京する事になりました。母からは「東京の風にあたっておいで・・・」との言葉をいただき、「行き当たりバッカの人生」(娘からの評)がスタートしました。
問 それからどうしたのですか。
答 翌月の7月3日、北海道・留辺蘂(るべしべ)を出発。急行で一日半かけて上京しました。「美術手帖」で下調べしていた田園調布にあった多摩洋画研究所に7月5日(土)に手続きに行き、7月7日(月)から正式にデッサンを始めました。なんで覚えているかというと、その日の朝、池上線の長原駅前の花屋さんに七夕飾りがあったんです。アレ?って思いました。北海道は月遅れの8月7日が七夕でしたから・・・。その時は無性に北海道に帰りたくなりました。「アカン、アカン!」と思い直し一歩を踏み出したわけです。ちなみにこの頃の愛読書は川崎のぼるの「いなかっぺ大将」でした。
問 塾での勉強は?
答 それが、塾で最初に一週間かけて描いた鉛筆デッサンが参考作品になって「あれっ?」って思いました。全くの素人でしたから。その2、3カ月後に、僕の描いている石膏デッサンを見て下さった講師の東京芸大大学院生(細見先生)から、「あなたは本能で立体感じているね・・・」ってボソっと言われたんですね。その時は言葉の意味が全く分からなかったんですけど、ここ10年くらい椅子のデザインをしていて、ふっとその時の言葉を思い出す事があります。でも46年経った今になっても意味は分かりません。
四浪後に多摩美大に入学
暗中模索の中で雑誌の特集見て・・・
問 一浪して多摩美へ?
答 いえ、そんなことがあって一浪の年は多摩美じゃなくて、東京芸大だけ受験しました。それで落ちて、先生に「親がいいと言うならもう1年やってみたら」と言われて二浪。デッサンは通るけれど、色彩で落ちちゃう。色が暗いんですね。「色感」って自分だけかもしれませんが、北海道は冬が長いから違うのかなぁと感じていました。だから北国の人が描いた絵は見て分かりますよ。色を明るく使える人が羨ましかったです。四浪目は初めて多摩美も受験、芸大は落ちて・・・。五浪はもういいやと、多摩美に行く事にしました。親もホント大変だよね。(笑い)。
問 学生生活はどうでした。
答 立体科の授業はものすごくハードでした。一日3~4時間寝れればいい方で徹夜で課題をやり、朝の5時頃「走れ歌謡曲」(文化放送)の八代亜紀の声を聴いてからチョッと仮眠して、朝8時過ぎの八王子駅発のバスに乗って9時の授業に出るんです。四年間その繰り返しでした。ウチら「タコ部屋立体」と呼んでいましたもんね。授業に付いて行けなくて毎年1割、2~3人が脱落していきました。入学時、インテリアは30人いましたが一緒に卒業できたのは20人でした。時間厳守は叩き込まれましたね。
問 確かにハードですね。
答 一週間に「椅子の模型100個作れ」っていう課題もありました。一日平均14~15個、一個30分かかったとしたら帰宅後相当な時間が必要になります。100個作った人が二人いました。見せてもらいましたが、針金で脚のパターンを10数種類、背、座も10数種類パターン化してそれぞれの組み合わせでした。 一見、全部同じ形に見えたけど条件はクリアーしています。創造性はないけれど、頭はいいなァと思いました。私は69個で、何とか70個と思いましたが出来ませんでした。69個目は当時吸っていたタバコ、ショートピースを確か3本、二つに切ってそれを針金の脚にのっけ、背と座のクッションにしています。評価は100点満点で69点でした。すごく納得しました。
問 充実した学生生活?
答 楽しかったけれども、四浪してますからね。1年生の終わり頃になって、「現役で入っている同級生と同じ感覚でジャレていてはあかん。俺、ホントは何をやりたいんだ?」と自分自身にテーマが無い事に気づき、考え始めたんです。
2年生の梅雨の時期でしたね、なんとなく途中下車した国立駅前の本屋で、偶然立ち読みした「モダンリビング」(婦人画報社)の椅子の特集記事の中にデンマークの家具デザイナー、ハンス・J・ウェグナーの「ブルホーンチェア」が載っていたんですよ。その時、「椅子でこんな表現ができるのなら、自分もやってみたい!」と瞬間思い込み、その場で椅子を人生のテーマに決めました。それまでは「人生を決めた一冊の本」とか、「一編の詩」とかいう言葉を耳にしたことがありますが、そんなものある訳ないと思っていました。でも自分が一枚の椅子の写真で人生を決めるなんてネ・・。ホントにあるんですね。スーパーレッジェーラには、その少し後で新宿・小田急ハルクで出会っています。23歳でした。
箪笥メーカーに就職、退職後デンマークへ
ポール・ケアホルムの授業を聴講、刺激受ける
問 就職はどうしましたか?
答 就職は特に行きたい企業はなかったので、とりあえずウェグナーの人生を逆トレースしてやろうと決めていました。彼は13歳から職人を経験した後、23歳で工芸学校に入って、その後デザインをやってます。自分は在学していたので卒業したら職人を体験してから、デザインをやろうと思ってました。
3年の終り頃、教授から「お前、就職どうするんだ?」と聞かれた時、その話をしたら埼玉の箱物メーカーを紹介されました。詳しく聞くと箪笥メーカーだったので「箪笥ですか〜〜?」って思わず聞き返したら「箪笥だって家具だ!」と。そのお言葉に反論できず、製作現場を体験できるのなら「何でもいいや」と決めました。その2、3日後、ほかの教授から大手のディスプレイ会社を紹介されましたが、残念ながらそちらはお断りしました。ホント残念でした。
紹介されたのは埼玉・大袋の箪笥メーカーです。当時紫檀材を使っていて、技術もしっかりしていましたね。そこで資材運びから始まって仕上げ塗装までのほとんどの製作行程を2年間かけて経験する事が出来ました。一番嫌だったのがサンドペーパーをかける研磨の工程で、朝から晩まで「やってられね〜よ」と思いながら、時々さぼってました。
問 それからどうしたんですか。
答 工場の色々なセクションを一周したら、ここでやることはもう無いと思ったんです。最後の1ヵ月、デザイン設計室に異動になったのですが、箪笥をデザインする事には興味が無かったので、半年前から次の事を考えていました。デンマークのコペンハーゲンにある王立アカデミーに留学していた多摩美の同級生に「ウェグナーと同じ空気を吸ってみたい」と手紙を書いていました。彼から「来い!」という返事が来たので「デンマークへ行って勉強したい。」という口実で会社を辞めました。実際は1ヵ月程の見学旅行みたいなものです。一応紹介してくれた教授に報告したら「帰ってきてからどうするんだ?」と聞かれ「まだ決めてません。」と答えたら「うちに来い」というお言葉で、帰国後、当時渋谷にあった教授の事務所で働くようになったんです。28歳の時です。
問 デンマークの思い出は?
答 運良く世界的なデザイナーのポール・ケアホルムの授業を見学することが出来たんです。多摩美の同級生から「明日、ケアホルムの講評会があるから来たら・・・」と言われ、翌日 早速出かけました。10人程の生徒の椅子のプロトタイプが、机を寄せた教室の空きスペースに並んでいました。それを囲むように生徒、真ん中辺りにケアホルムが座っていました。いちばん驚いたのは生徒の作品の全てがケアホルムの形だった事です。師匠がOKを出した形です。ヨーロッパの『徒弟制度』の意味がリアルに理解できた瞬間でした。
コペンにいた時、二度ケアホルムに出会っていますが、二度目は真夜中のニューハウンの飲み屋街です。こちらもしたたか飲んで深夜バスに乗ろうとフラフラ歩いていた時、まばらな人の流れの向こうからチョット大柄な男が一人、少し揺れながら歩いて来たのを見て、私の同級生が「ケアホルムだッ!」って少し大きな声で言いました。声が聞こえたのか一瞬、足が止まったように見えました。その時感じたのは「あんなすごい人でも孤独なんだ!」って。何とも言えない寂寥感みたいなものがありました。彼が亡くなる4年程前の事です。
2〜3年前、埼玉の劇場で蜷川幸雄演出の「ムサシ」を観た時も「この人、もの凄い孤独の中で考えたんだろうなァ」って思えるシーンがあって、その時、深夜のケアホルムの後ろ姿と重なって不思議な感じを覚えました。
問 得るものが多かった旅行ですね。
答 そうですね。もう一つ印象に残ったのは、同級生がケアホルムの授業の中で聞いたそうですけど、彼の作品の中にPK33というステンレス・フラットバーの三本脚のスツールがあるんです。その革シートを止める黒い輪ゴムが「象の尻尾の毛に黒ゴムをコーテングしたもの」という話があります。「まさか?」と思い、何度も同級生に問いただしましたが「確かに言っていた」って。その後、自分なりに「要は何でもアリなんだよ!」と解釈し直しました。そう思えたことで後々、いろんな場面で役に立ちました。短い滞在でしたが随分刺激を受けたように思えます。帰国後は教授のデザイン事務所で4年間勤め、その後、独立しました。
独立後、オカムラの仕事をメインに
通産省、日大経済学部図書館などの家具・什器デザイン
問 独立後は?
答 知り合いで、渋谷に都市計画、調布に家具、代々木に建築とそれぞれジャンルの違うデザイン、設計事務所があって「手伝ってくれ」と言われ週に二日ずつ行ってました。他に早朝と夜は自分の仕事をやってました。半年ぐらい経った頃、オカムラ(岡村製作所)に入った多摩美の別の同級生から「どうせ暇なんだろうから手伝え!」と声を掛けられ仕事をさせてもらうようになりました。ちょうどバブルの始まりかけた1983年でした。
問 バブルの頃はどのような仕事をしていましたか。
答 結構、面白い仕事がありましたね。来るのはものすごく大変か、簡単な仕事でした。ちょうどいい仕事はなかなか、外部スタッフまでは廻ってきません。一番記憶に残っているのは通産省(現経済産業省)大臣室の家具・什器計画の仕事ですね。応接セットからデスク、テーブル、収納等などオフィスチェアー以外は全てデザインしました。ソファの横に置く灰皿スタンドまで新たにデザインし、自分としてはこの灰皿のデザインが一番気に入ってました。他、日本大学経済学部の図書館。「お金はいくらかかってもいい」と言われ、建築躯体に大理石が使われていたのをいいことに、同じ石をキャレルデスクから、果てはプランターにまで部分的に取り入れ、かなり楽しみながらデザインしました。後でオカムラの営業マンから「搬入業者が、今までこんな凄いプランター見たことない」と言っていたと聞かされ、すごく嬉しかったのを覚えています。 写真をもらいましたが、同じ大理石を使ったことで什器が空間に溶け込んでいて、自分でも合格点を付けました。図書館は全国で200件ほど家具・什器のデザインをやらさせてもらいました。
問 すごい数ですね。
答 オカムラは当時、木製家具が得意な人が少なかったのと、箪笥メーカーの経験で箱物の構造が分かっていて、作れる図面が書けて、デザインも出来たので重宝されたんだと思います。ゴルフ場の家具・什器のデザインも、政財界人の隠しゴルフ場を皮切りに50件ぐらい、ほかホテル、一般住宅の家具・什器のデザインや並行して大手不動産会社、家具メーカーの仕事もやらさせてもらいましたが、不動産会社のデザイン料は提示された額がホントにバブルでした。
バブル崩壊後、本格的に椅子のデザイン
95年デザインフォーラムに入選
問 椅子のデザインは?
答 バブルが下火になって来た92年頃かな、ふと「ホントはオレ、椅子のデザインやりたくてこの世界に入ったんだよなぁ」と思い出し、本気で椅子のデザインを始めました。けれども集中できないんですね。ピアニストが一日練習を休むと、元に戻るまで3日かかるとか言いますけど、それと同じで椅子のデザイン感覚が戻るのにかなりの時間がかかりました。
それから2年ほどかけて纏めた三本脚の椅子が、95年に「デザインフォーラム95」(日本デザインコミッティ主催)に入選して以来、再び日本クラフト展にも出品するようになりました。その中で1997年の展示会を観てくれていたBC工房のオーナー・鈴木恵三氏と、ヒョンなことからお近づきになれました。彼の御厚意で藤野(神奈川県相模原市)の『きらきら工房』を「好きなように使え」というお言葉で、日曜大工のステージとして現在まで約14〜5年間、毎日曜日使わさせていただいております。椅子の作り方はひとに教わったことは無く、文字通り我流で日曜大工レベルの技術ですが、今思うと無茶なデザインにはそれがかえって良かったのかもしれません。
問 山元さんの椅子はいろんな雑誌にも紹介されていますね。
答 最初は2000年に「室内No545」(工作社)の「名作に続いて名作は生まれる」(織田憲嗣氏執筆頁)にスーパーレッジェーラをリデザインした椅子がイラストで紹介されました。その翌年、同じ椅子の写真が「椅子の研究・2」(ワールドフォトプレス社)に掲載されました。校正ミスで自分の名前が「山本」になっていましたが、そのため舞い上がることなく、客観的に自分の作品を見つめ直す事が出来ました。
問 「レッジェーラ」の意味は?
答 「レッジェーラ」はイタリア語で「軽い」という意味だそうです。源流はイタリア・キャバリに持ち込まれたキャバリチェアーだそうで、それをイタリアの建築家、ジオ・ポンティが1951年にリデザインしたものが「スーパーレッジェーラ」、超軽量椅子です。詳しくは西川栄明著「名作椅子の由来図典」(誠文堂新光社)に出ています。脚の平断面が少しふくらみのある二等辺三角形で、これはキャバリチェアーの後脚の一部分の形状に倣ったのかな、って個人的には思っております。この断面形状は椅子の脚にかかる前後、左右への荷重の大きさ、方向を考えると理に適っているし、丸脚と違って見る角度によって能面のように表情が変わっていくので、道具としても、造形物としても、非常に優れたデザインだと思っています。
椅子に関心のあった世界の建築家、デザイナーがリデザインに挑戦してきた歴史の中、エポックになった軽量椅子に○○レッジェーラという呼称を付けて紹介されたのが、2001年、前述の「椅子の研究・2」(ワールドフォトプレス社)での織田憲嗣氏の執筆ページです。その中で私の軽量椅子は「ヤマモト・レッジェーラ」と命名して戴きました。2011年には前述の西川栄明氏の「名作椅子の由来図典」にも紹介されていますが、この本の日本ブースは第一、第二世代の日本人デザイナーの重鎮で埋まっておりまして、私めはレッジェーラ繋がりでイタリアブースにチョッと載せていただきました。恐れ多い事で。でもリデザインって、自分は形から影響を受けたのですが、ホントはその作品の考え方から影響を受けた方が自分自身の造形(スタイル)に辿り着き易いのかなぁって、途中から思うようになりました。
問 最近は?
答 椅子の注文もありますが、家具のデザインやオフィスプラン、それに合わせて特別な什器があればデザインもします。それから、家具デザインの講師も・・。娘に「学校の先生は嫌だと言ってながら、やっているじゃないの」と言われた事ありますけどね(笑い)。
問 山元さんの椅子のデザインの仕事のこれからを?
答 オーソドックスな椅子を丁寧にデザインできたらと思っています。レッジェーラタイプの椅子は、判る人が判ってくれればそれで充分ですし、他のタイプはお客様の要望があれば寸法をどんどん変えています。自分のスタイルに対するこだわりは持っていますが、お客様の希望によって変化させていく事も、自分のスタイルのひとつだと思っています。それが結局、自分自身のためになっていますね。
よく耳にする「人間工学」は家具をデザインする者として、常識程度には理解しているつもりですが、平たく言うと大量生産をするための平均値を求める学問なので、その数値通りにやっても自分にはあまり良いデザインが出来てません。アートではなく、道具としての椅子のデザインってなかなか見えてきません。だから続けていられるのかなぁ・・・。
「絵に描いたものは作れる!」、元・朝日相扶製作所社長 阿部啓一氏の言葉ですが、大好きな言葉です。
データ
1950年 | 北海道生まれ |
1977年 |
多摩美術大学立体デザイン科卒 |
1977年〜79年 |
埼玉・収納家具メーカー工場勤務 |
1979年〜83年 |
都内・デザイン事務所勤務 |
1983年 |
(有)ゲンデザイン事務所設立 |
2006年 |
個展(東京・新宿OZONE) |
2007年 | 個展(横浜・アートフォーラムあざみ野) |
2008年 | 個展(高山・遊朴館) |
2010年 | 個展(茨城・ギャラリー庵) |
デザインコンペ歴
1980・1996・1997・ |
「日本クラフト展」入選 |
1995 | 「デザインフォーラム95」入選 |
1998 |
第三回「SOFUチェア−デザインコンペin山形」入賞 |
1998〜2008 | 第一回〜第六回「暮らしの中の木の椅子展」入選 |
2002・2006 | 第三回・第五回「暮らしの中の木の椅子展」入賞 |
2014 | 「高岡クラフトコンペ」入選 |
掲載誌
2011 | 「名作椅子の由来図典:歴史の流れがひと目でわかる」(西川栄明著) 誠文堂新光社 |
2010 |
「手づくりする木のスツール」(西川栄明著) 誠文堂新光社 |
2009 | 「MONOマガジン 600号」(118人のデザイナーが語る私の新製品) ワールドフォトプレス社) |
2006 | 2006「週末工房NO5」(Woody Style News) 誠文堂新光社 |
2004 | 「手づくり木工事典/ウッディワークNO2」(暮らしの中の木の椅子展) 小 学館スクエア |
2004 | 「KOKOCHINO vol1」(暮らしの中の椅子展) ノースランド出版 |
2003 | 「室内 NO582 特別付録:名作に学んで名作椅子は生まれる」(織田憲嗣氏執筆頁) 工作社 |
2001 | 「椅子の研究2 椅子のリ・デザイン物語」(織田憲嗣氏執筆頁)ワールドフォトプレス社 |
2001 | 「日本人の椅子」(鈴木恵三著) 建築資料研究社 |
2001 | 「モダンリビングNO138 傑作の素顔」(織田憲嗣氏執筆頁) 婦人画報社 |
2001 | 「手づくり木工事典NO46 第三回『いすコレ』」 婦人生活社 |
2000 | 「室内NO545 名作に続いて名作椅子は生まれる」(織田憲嗣氏執筆頁)工作社 |
ほか |