日本のジュエリーデザインの第一人者
50周年越えて新たな個展に意欲を
戦後日本が急速に復興を遂げて豊かさを少しずつ実感し始めた1960年代後半から70年代、時代とシンクロするようにジュエリーデザインも注目を集めるようになってきました。田口益世さんは日本のジュエリーデザインの草分けの一人で、現在は日本ジュエリーデザイナー協会の正会員で多摩クラフト協会副会長として第一線で活躍しています。11月に東京・銀座で個展を控えた田口益世さんに話を伺った。
中学時代からジュエリーに興味
女子美卒業後、時計メーカーで装飾時計を手がける
問 ジュエリーデザイナーに子供の頃からなりたかったそうですね。
答 最近ふっと、中学校の進路指導で将来何をしたいかと聞かれて、「腕輪や首飾りを作るようになりたい」と答えたら、担任の男の先生に「ふーん」と聞き流されたことを思い出しましてね。絵は好きでしたね。
問 将来絵を勉強したいと・・・。
答 むしろ母が積極的でした。高校(常磐松学園高校)の理事長が女子美を卒業された方で、母に「女子美というところがありますよ」と話していたようです。同じ頃自宅の裏に下宿していた東京芸大陶芸科のお兄さんに、「デッサンもしっかりしているから美大にいけますよ」と言われて、最終的に女子美を受験したんです。
問 親の影響は大きいですか。
答 両親は教育熱心でしたね。兄と弟には男だからと随分厳しく躾も勉強もさせましたが、私には「好きな事をやらせよう」と甘かったですね。母は私が家庭に向いてないと思ったのか、進学させて手に技術をつけさせようと考えていたようです。
問 女子美に進学しますね。
答 母は4年制を希望してましたが、私は結婚願望も強くて4年間も勉強していられないって、女子美短大に入りました。母はあきらめきれずにいましたが、教職課程を取っていれば、当時は私立の学校の美術教師になれたので、母もようやく納得してくれました。
問 卒業してオリエント時計に入社ですね。
答 いえ、最初は横浜市にあった商社シーベルヘグナー社のオメガ時計ディスプレー部に入りました。そこでスイス人の職人が作る婦人時計の飾り彫金にすごく興味が湧いて、知っている英語を並べて頼んで技術を見せてもらってたのが後で役に立ちました。
問 シーベルヘグナー社には何年いたのですか。
答 2年です。当時家は目黒から日野市に引っ越して、横浜まで通うのは結構大変。2年後には東京・大手町にディスプレー部は引っ越すという入社時の条件が実現せず、結局辞めました。
問 それからオリエント時計へ。
答 はい。面接で婦人時計の飾りもしてたと話したんです。その頃オリエント時計は装飾時計の企画があって、すぐに意匠課に配属されました。
問 東京オリンピックの年ですね。
答 はい。オリエント時計は人を育てる会社で、入社してすぐ私をジュエリーデザインの第一人者岩倉康二先生のところへ勉強に行かせてくれました。結局、退社するまでの7、8年、毎週土曜日通いました。当時意匠課の高木課長は、岩倉先生とは同郷(金沢)、同窓(東京芸大)でもあり、会社が岩倉先生に仕事を発注していたという関係もあったんです。
問 仕事の内容は。
答 時計の装飾デザインです。バイヤーが来る度にデザイン企画会議にも加わるようになり、結構それが売上に結びついたようです。
問 期待が大きかったんですね。
答 ええ、随分恵まれていましたね。仕事上は勿論、遅刻しても私のタイムカードは出勤になっていて、一度も遅刻がなかったんです(笑い)。
国内外でジュエリー賞を受賞
岩倉、桂両先生にジュエリーデザインの基礎を学ぶ
問 2年後の1967年に日本ジュエリーデザイナー賞を受賞していますね。
答 ジュエリーデザイナーの賞としては当時から日本で一番権威のある賞でした。嬉しかったし、自信にもなりましたね。
問 田口さんがジュエリーに興味を持つようになったのはいつ頃からですか。
答 私が岩倉先生の工房に通い始めて最初に作った指輪(写真)を「デザインへの神経も行き届いていて素晴らしい」とほめて下さったのに、気を良くして作るようになっていきました。その頃からと思います。
問 ジュエリーもオリエント時計で扱っていたんですか。
答 いえ、勉強の一つとして作っていたんです。会社のお金で勉強をしてますでしょ。作ったものは課長や販売会社の社長たちによく見せていました。
問 1971年にはインターナショナルダイヤモンドアワーズ賞を受賞していますが、これはどんな賞ですか。
答 当時世界のダイヤを支配していたユダヤ系のデビアス社が主催する賞(※ジュエリー界のオスカー賞とも言われた)です。まずデザイン画の審査を通過すると3ヶ月以内に製品を作って提出。約3000作品の中から最終的に30作品(名)に与えられるもので、ヨーロッパではかなり権威があった賞です。この時、日本人の受賞は私を含めて数名でした。
問 (受賞作品を見て)これですね。
答 プラチナとダイヤを使ってとても手間がかかり苦労をしました。審査委員たちは四つ葉のクローバーと呼んでましたが、私は仏教の言葉の慈・悲・喜・捨の4つの愛に守られて地球も自分も輝いているという発想の元に作り、「平和」と名付けてます。
問 じゃあ、随分話題にもなって。
答 いえ、会社ではそれなりに評価してくれましたが、日本では装飾性の強い宝石を配したデザインの評価は高くないので、余り話題になりませんでした。ダイヤモンドやプラチナに目がいって、デザイン力や技術力にはあまり目を向けてくれない時代でした。
問 桂盛行氏に師事するきっかけは?
答 桂盛行先生は、人間国宝の彫金作家桂盛仁さんのお父さんで、当時彫金の第一人者でした。日本橋三越の伝統工芸展で桂先生の帯留め金具を見て、どういう風に作るんだろうと興味を持ったんですね。すぐに先生のお宅に伺い、私の作品をお見せして、伝統工芸を勉強したいとお願いするとあっさりと「いいよ」と快諾され、4年間通いました。
問 どんな勉強をしたのですか。
答 打ち出しという彫金の技術です。桂先生のところでは最初に瓢簞(写真)を作るのが決まりで、次にトウガラシ。菊の花が最後に習ったものです。私のジュエリー作りの基礎になった技術です。
問 岩倉氏、桂氏のお二人に出会って変わりましたか。
答 なによりもデザインの巾が広がりました。
管理職嫌で退社し独立
高度成長に乗り寝る暇もない忙しさに
問 桂先生に弟子入りしたのは将来の独立を考えて?
答 その頃、会社からは管理職にとか海外に研修に行かないかとか言われてたが、デザインの仕事がしたいので譲らなかったんです。受け入れると借りができて一生辞められないと思って、ジュエリーの仕事がしたくて辞めたいと言い張ったんです。
問 どちらも譲らず。
答 全く役職には興味がなく、結局他社に移らない条件で(1974年に)退社しました。勉強させてジュエリーができるように育ててもらった恩がありますから、他社に行くつもりは全くありませんでした。
問 独立して最初にしたのは。
答 改名です(笑い)。本名は澤子ですが、母が姓名判断や占いが好きで、「仕事をするなら益世にしなさい」と言われて。それで翌年頭文字を取って「アトリエえむ」が本格的スタートをしたんです。
問 見通しはあったんですか?
答 役付きになりたくない、ただそれだけで辞めたものですから見通しは全くなかったんですが、結果的に時代は一本調子というか、右肩上がりでしたね。特にバブルまでは。
問 そうですか。
答 日本人が贅沢を夢見た時代に私自身が乗っかったんです。指輪の一番の原点は邪魔にならない甲丸デザインの結婚指輪です。それだけでは面白くなくてダイヤを入れたり、ひねったりするものを作り始めた時代ですね。
問 バブルの時代で思い出す事は?
答 寝る間もないくらいジュエリーを作り続けて、デパートや画廊等で個展を開いて、自分でもこんなに売れていいのかと思うくらい高価なものも売れましたからね。バブルが終わって反動でどっと疲れが出てきましたね。ああいう事はもう当分ないでしょうね。
問 最近50周年を迎えて・・・・・
つらいけど楽しい、だから続けられる
これからも日本人に合うジュエリーデザインを
答 私は日本のジュエリーデザインの先駆者岩倉康二先生や菱田安彦先生、平松保城先生、山田礼子先生の次の世代にあたり、日本のジュエリーデザインの開拓者グループの末席を汚していました。協会設立初期の頃はジュエリーデザインはなかなか評価されないところがありましたましたね。
問 どうしてでしょうか。
答 洋服もジュエリーもヨーロッパとの歴史が違うんですね。
問 田口さんはどのように考えていますか。
答 宝石や色石をたくさん使うのは日本人には合わないのかなと。日本人の美的感覚は大変勝れていて“わび”“さび”に象徴されるように渋いものの方が引き立つんですね。日本の工芸は、極めていく中で個性が出てくる。個性が出てくるまで技を磨いていって、初めて作品になるんですね。なかなかジュエリーの作品を見せても理解していただけない事はあります。
問 先程道具の一つ鏨(タガネ)を拝見しましたが、一つ一つご自身で作っていて、それだけでも大変だと知りました。
答 ジュエリーの制作に限らず、どの世界でもものつくりに工具作りは付きものだと思います。例えば、一つの指輪を作るのにいくつもの工程、技術が必要で楽な仕事ではありません。でもつらいけど楽しい。だから続けられているんですけどね。
問 最近は随分簡単にできるジュエリーデザインの製品も出ていますね。
答 パーツ屋さんに行くと何百種類ものジュエリーのパーツがありますね。工具のヤットコ1、2本あればできますが、いくら組み合わせても同じようなものしか作れませんが、それもアクセサリーの一つ。見た目がきれいですが、すぐに飽きたり、目が肥えてきて物足りなさに気づいてくる方が増えてます。
問 今も4人の方がジュエリーを作っていますが、教室は何年くらいになるんですか。
答 来年で40周年になります。教室名「グループ 空」には生徒さんたちに大空に向かって翔び立って欲しいとの希いがあります。
問 教室の特徴は。
答 一番の特徴はデザインの押しつけは一切しないでことです。最初は自分のイメージを紙に書いてもらって、作っていきます。そのうちだんだんとデザインもできるようになり、皆さんが自分の好みの石で自分のジュエリーを作りたいと言うようになってくるのが、私の一番の楽しみです。
問 最後に今年(2014年)11月の個展に向けておっしゃりたい事を。
答 今までお話しした事が凝縮された作品展になれば大成功です。制作にあたっては自然から受ける感動、植物、水辺散策などがデザインの基本になっています。
データ
田口益世(本名 田口澤子) | |
1962年 | 女子美術大学短期大学部造形美術科卒業 |
同年 | シーベルヘグナー社入社 |
1964年 | オリエント時計入社 |
1965年 | 岩倉康二氏に師事(〜73年) |
1967年 | 日本ジュエリーデザイナー協会賞受賞 |
1971年 |
インターナショナルダイヤモンドアワーズ受賞 |
1973年 | 桂盛行氏に師事(〜77年) |
1974年 | オリエント時計退社 「アトリエ えむ」主宰 |
1975年 | 彫金教室「グループ 空」主宰 |
以後、毎年画廊で作品発表 | |
現在 「スタジオ えむ」主宰 彫金教室「グループ 空」主宰 (公社)日本ジュエリーデザイナー協会正会員 多摩クラフト協会正会員 |