ガラス工芸作家 大塚 孝

グラフィックデザイン力を生かし
新たなサンドブラストの世界を切り拓く

 
IMG_0745 サンドブラスト、余り馴染みのない言葉だが若い女性を中心にその技法を使って仕上げた美しいガラス工芸品のファンは多い。
 小田急線千歳船橋駅前にあるガラス工芸の世田谷サンドブラスト教室ハナミズキは20代から70代まで多くの生徒が集う人気の教室である。
 主宰者の大塚孝さんは現役時代、デザイン制作会社、広告代理店、製薬メーカーの広告担当と立場を変えながらグラフィックデザイナーとして活躍。55歳でサンドブラストに出会い、定年後本格的に活動を始め、様々なアイデアを生み出し、サンドブラストに新たな息吹を吹き込んでいる。目標を定めたらひたすら努力し目標を達成する、その始まりは高校一年生の頃までさかのぼる。大塚孝さんに話を伺った。

 

高校時代、神田で美術手帖に出会いデザイナーになる決心

 どんな子供でしたか。
 絵が大好きで、小さい頃から何にでも落書きをしていました。信じられないでしょうが、当時通っていた小・中学校中に私の絵が飾ってありました。友達からも「大塚は画家になるのだろう」と言われていました。
 やはり画家になろうと。
 いえ、父親が江戸川区西葛西で不動産関係の会社を営んでいました。男ばかり4人兄弟の次男坊の私は「将来は経理をやれ」と言われて、簿記やそろばんに取り組んでいました。
 デザイナーになりたいと思ったのは。
 高校一年生の時です。当時、神田の古本屋街が好きで毎日のように学校が終わると歩いていて、そこで偶然「美術手帖」を見つけたのです。デザイナー募集の広告がいっぱい載っており、世の中にデザイナーという職業があることを知りました。そこから将来自分にはこの職業しかないと決めました。
 それでどうしましたか。
 すぐに父親に話し、高校の担任にもデザイナーになりたいと話しました。父親は反対で、高校までの費用はみるが、進学費用は一切面倒みない、自力でやれと言われました。それからは学資を貯めるために夏休みも冬休みもアルバイト漬けで、修学旅行の積立金も学資の足しにしたので行っていません。
 卒業後はデザイン学校へ。
 美大に行きたかったけれど、学資が足らず渋谷区松濤にあった青山デザイン専門学校(以下青デ)に入りました。環境も静かで学費も安く、いい学校だったんです。

 

サンドブラストのガラス工芸品

サンドブラストのガラス工芸品


バリケード内から作品を取り出し就職活動

 どんな学生時代でしたか。
 入学(昭和43年)当時、東京オリンピックのポスターのデザインをした亀倉雄策や横尾忠則、永井一正らが脚光を浴びており、デザイナーは花形の職業でした。デザイン専門学校があちこちにできて、デザイナー志望の学生がいくらでも入ってきた時代です。ただ前年に起きた東大紛争や日大闘争など大学紛争の影響が青デにも及んできました。学校封鎖が起り、学外からいろんな連中が入り込んできて「火炎瓶の作り方」「装甲車の襲い方」などの授業が始まって、勉強どころではなくなりました。
 「青デ闘争」と呼ばれて専門学校の学園紛争では知られた紛争だったようですね。
 私は就職しなければと必死でした。そういう状況ですから卒業は無理だと思い、入試が終わっていた文化学院の院長に直談判して入り直しました。最終的に青デも学生証と引き換えに卒業証書を出すことになりました。我々の就職活動は自分の作品でプレゼンテーションをします。バリケード封鎖された学校からB2のパネル5枚、自分の作品を取り出して就職活動を始めました。多い時は広告代理店のデザイナー1名の募集に400人の応募があった、そんな時代です。文化学院は就職が決まったので中退しました。

 

デザイン会社、広告代理店で技術磨き、30歳で救心製薬に就職

 結局、就職は?
 神田にある印刷会社に入り、ポスターや雑誌などあるゆる印刷物のデザインをやりました。就職した当初から30歳までに経験を積んで独立するか、メーカーの広告(宣伝)部に入り広告の研究をしたいと心に決めていました。2、3年して大手デザイン会社のクリエイティブ部門に入って、デザインの仕事を覚えました。
 仕事はハードだったそうですね。
 デザイン会社では、徹夜で仕上げて、朝スポンサーにプレゼンが日常的でした。もう体はボロボロ、このままでは体が持たないと思いましたが、仕事を覚えるためには石にかじりついても辞めまいと必死でした。その後麹町にある広告代理店の経営立て直しを託されて友人のコピーライター、プランナーと3人で入りました。
 どうなりましたか。
 3年間、仕事が終わってからも社員を集め勉強会をやったりして建て直そうと努力しましたがダメでした。その頃はもう30歳になっていましたし、将来性も感じられないので見切りを付けることに決めました。
 結婚したばっかりだったそうですね。
 そうです。ただ社会に出て10年、あらゆる職種の広告デザインを手がけていたのでフリーになっても生活していける自信はありました。求人登録をしていたハローワークから救心製薬広告部のホリ企画(昭和50年救心から独立、平成19年救心と再び合併)から募集が来ていると連絡がありました。救心は杉並区和田にあり、当時住まいが高円寺にあったので近いし願ってもないチャンスだと思いました。試験は「2時間で新聞広告を作りなさい」というものでした。新聞広告は毎日作っていたのでお手もので、30分で仕上げたことを覚えています。それで無事入社が叶いました。
 30歳でフリーか、メーカーに入るという目標は達成したわけですね。
 入社してすぐテレビ、ラジオ、新聞、雑誌、パッケージなど広告全般を任され、以前は雲の上の存在だった電通、博報堂と仕事をするのは不思議な気もして楽しかったですね。若い頃描いていたことが広告デザインではできたかなと思っています。それから定年まで救心で広告全般を担当しました。

 

奥さんもアシスト、生徒への細かい気遣いが好評だ

奥さんもアシスト、生徒への細かい気遣いが好評だ

 

知名度低く工夫の余地が大きいサンドブラストの世界へ

 最近は定年も少しずつ伸びていますが、サラリーマンにとって定年後の生き方は、人生の中で進学、就職と同様に大きな問題だと思っています。定年後のイメージは。
 私は最終的に広告部のトップになりましたが、広告デザインは日進月歩です。私が社会に出た頃の日本のデザイン業界は、一人でイラストやデザインなど何もかもやっていたデザイナーがトップにいて、世界的レベルからはかなり遅れていました。一気に世界に追いついたのは広告制作の分業化が進んだからです。一から広告制作会社を興すのならともかく、若い人に伍してグラフィックデザイナーとして仕事を続けることは考えませんでした。
 定年後を真剣に考え始めたのは何歳頃ですか。
 55歳からです。自分はデザインしかできないのでその経験を生かせるクラフトの分野をネットで探しました。
 サンドブラストを選んだ理由は?
 探してみると多くは意外に親方制度や資格制度がピラミッド型であって、一人前になるのに10年、15年かかる職人の世界だと分かりました。サンドブラストはそれがありません。工芸としての認知度、知名度も低く、伝統もあまりない世界です。デザインも遅れていました。年齢を考えれば10年、15年修業しなければ一人前になれないのはきつい。それでやってみようと思ったのです。
 サンドブラストの基本的なことを少し教えてください。
 元々造船所で船舶の錆びとり用にアメリカで考案されたものです。バイクや車の錆び落としにも使われている表面に砂などの研磨剤を吹き付けて削る加工法です。それをガラス工芸に応用したもので、ガラス表面に砂を吹き付けて彫っていきます。砂はアルミナというセラミックです。20世紀初頭に日本に入ってきましたが、同じガラス工芸品の江戸切子のような知名度もなく余り広がりませんでした。
 最初はどこで学んだのですか。
 55歳になって江東区西大島のサンドブラスト作家の教室へ週1回1年半通いました。住まいの多摩センターから京王線・都営新宿線で一本ですから便利ではありました。

 

技術のばすため4年前、千歳船橋駅前に教室を開設

 本格的に始めたのは。
 定年後、自宅の一室を改造して本格的に打ち込み、作品をイベントなどで売り始めたんです。
 教室も早くから開いていますね。
 教えることが自分の技術を伸ばす一番の方法だと思い、少人数ですが自宅で教えていました。1年が経過した頃、多摩クラフト協会のガラス工芸作家・松本建夫さんから、奥さん(松本美子さん)の千歳船橋駅前のステンドグラス教室を成城に移すので、部屋が空くから教室を開いたらと勧められて4年前に始めました。
 どのように教えているのですか。
 サンドブラストは彫り方に決まりはありませんが、生徒に教える基本はあります。彫る前にまず花や木、家、動物のデザイン(絵柄)を描いたシートをはさみで切ってガラスに貼ります。最初に教えるしずめ彫りは比較的簡単なデザインのものを彫ります。鎌倉彫をイメージすると分かりやすいと思います。文様(絵柄)の周りをノズルで深く彫っていくもので、尚かつ一番手前のものを深く彫ります。深く彫るほど絵柄が手前に見えます。それで遠近感を出します。そのとき砂を吹き付けるノズルの使い方をマスターしていきます。
 次に教えるのは。
 逆レリーフという方法です。これも手前から彫りますが、周りからではなく真ん中から彫る方法で、手がかかるだけ立体的でボリューム感がでます。最後が段彫りと言われるものです。被(き)せガラスに文字通り段差をつけていくものです。被せガラスは一見すると一番上の色しか見えませんが、その下に何層もの色のガラスを被せてできています。それを彫っていくので、出来上がるといろんな色が見えるガラス工芸品になります。

 

パソコンで作った絵柄を右のシートに転写する

パソコンで作った絵柄を右のシートに転写する

 

オリジナルデザインで世界に一つのガラス工芸作品を

 ホームページを見ましたが授業数はかなりありますね。
 月曜日と金曜日を除いた曜日の午前と午後、水曜日・木曜日は昼間働いている人を対象に夜も開いています。以前は私自身の作品作りにかなり時間を割いていましたが、二つ同時にはできないので現在は教室が中心です。
 生徒数は?
 約40名です。20代から70代まで年齢層は幅広い。女性の数が70%強です。
 これからの目標は
 まず東京で一番のサンドブラスト教室にしたいと思っています。
 他の教室と違いはあるのですか。
 多くの教室ではパターンが決まったデザイン(絵柄)や、デザイン集に沿って制作しています。私はパソコンでデザインしたオリジナルデザインをシートに転写していきます。転写時にデザインがぶれないように転写用ボールペンも工夫して作りました。
 すごいですね。
 ですから素材の形状に合わせたオリジナルデザインのシートがいくらでもできます。作りたいイメージを、私がサンドブラスト用に描き起こして、生徒が彫っていくことができます。自分の手で世界に一つのガラス工芸品を簡単に自分で作ることができます、ということです。

 

オリジナルのボーペンで転写、線がぶれないのが特徴

オリジナルのボーペンで転写、
線がぶれないのが特徴

 

 生徒の反響は。
 昨日も他の教室で経験のある女性2人が来て「初めてでもこんなにできるんだ」「ここに来て良かった」とびっくりしていました。妻も指導できるので、基本的に1回のレッスンで2人、マンツーマンで個人指導できるようにしています。マンツーマン指導の教室もあまりないと思っています。
 奥さんはいつ頃から。
 妻は、私が始めると興味を抱いて介護職の仕事の休みを利用して同じ教室に通うようになりました。被せ段彫りでは絵柄が消えてしまう等、毎回、私の作品と比べてどうして自分はちゃんと作れないのかと気落ちしたこともあったそうです。現在は「(生徒に)失敗させない」「次回を楽しみに来ていただきたい」と、当時の経験を生かして私の足りないところをカバーし、アシストしてくれています。
 オリジナルデザインをもう少し詳しく。
 デザインもオリジナルですが、ガラス素材の大きさに応じて絵柄をパソコンで拡大縮小できます。花びらの一部だけをもう少し伸ばしたいと思えば即刻変更もできます。お友達にプレゼントしたいとよくいらっしゃるお客様に、アイデアを伺い具体的にデザインして作って差し上げています。個々の細かな注文に応じて対応できる教室は他にはないと聞いています。そこが長年デザインをしてきた私の強みだと思っています。
 メールで注文もあるそうですね。
 注文に応じてメールで細かいやり取りをして作ることもあります。また自分でデザインを起こせない人にはデザインをシールにして販売もしています。

 

今後はサンドブラストの知名度をあげる活動も

マンツーマンで指導していく

マンツーマンで指導していく

 

 これからの目標は。
 ガラス工芸では切子が有名ですけれど、そのレベルまでサンドブラストの知名度を上げていきたいと思っています。これまでは小中高校の課外活動で教えて欲しいと要望は結構ありましたが、教室運営に力を注ぎたいので遠慮してきました。今後はそれも考えていきたいし、昨年好評だった夏休み親子体験教室も来年以降検討しています。先日来た小学生が妖怪ウオッチを作りたいと言うので、「じゃあ絵を描いてご覧」と描かせた絵をパソコンに取り入れてシートを作ってあげました。お父さんはその行程を全部撮って、親子で喜んで帰っていきました。ああいう姿を見ていると嬉しく思うと同時にサンドブラストはまだまだ可能性があると感じます。
 課題をあげるとしたら。
 意外と知られていないのですが、サンドブラストで使う被せガラスは東京都の伝統工芸品に指定されています。一個一個手作りで若干形も厚みも違います。お客さんはそういう事情を知りませんから、作品を見てここに気泡があるじゃないか、薄いじゃないかとクレームを付けてくることがあります。
 製品(素材)のばらつきですか。
答 我々は6個単位で専門のガラス屋さんで仕入れます。ガラス製品でも気泡などない製品をA品、多少中にばらつきのあるものをB品と呼んでいます。手作りですから工業製品のようにはいきません。それが手作りの味という考え方もあります。
 これから変わりますか。
 昔ながらの被せガラス業界が少しずつ廃れていっています。若い人たちは自分たちでガラス工房を作り、被せガラスを作るようになってきています。世代交代の時代なのかもしれません。そういう若い人たちと新しいサンドブラストの作品を作っていけば、新しい世界が広がると思います。

データ

東京都生まれ  
1970年 青山デザイン専門学校卒業
2006年 救心製薬デザイン室在職中にサンドブラスト工芸に魅せられ活動
2008年 多摩クラフト協会会員となる
2008年 ギャラリー花(経堂)出展
2008年 硝子彫刻展(東京・札幌)出展
2010年 東京都薬用植物園にてサンドブラスト講座開催
2011年 世田谷サンドブラスト教室ハナミズキ開設
2012年 京王百貨店・京王ギャラリーにて4人展出展
2013年 清川泰次記念ギャラリー、区民ギャラリーにて第1回ガラス彫刻展涼開催
2014年 茶道裏千家淡交会行事サンドブラスト講座開催
2014年 清川泰次記念ギャラリー、区民ギャラリーにて第2回ガラス彫刻展涼開催