制作の基本、昔は幼い娘たちがわかる作品
現在はよりスピリチャルに、麒麟に挑む
画家志望の少年が強い金属を自由に折り曲げ加工できる魅力にとりつかれ金属工芸の世界へ。モニュメント制作や猫を中心とした作品で多くのファンを獲得してきた長島のぼるさんに話を伺いました。
画家志望から金属の美しさに惹かれて
答 小学生、中学生の頃は画家志望でした。でも通っていた絵画教室の先生を見て「画家では食っていけない」というイメージができてしまって(笑い)。中学3年生のときに七宝焼に出会って、金属板を自由に切ったり曲げたりして形を作るのを見て衝撃というか、とても魅力的に映ったんですね。金属の光沢、機械的な美しさにも惹かれるところがあって、それがこの道に入る原点かと思っています。
問 高校も工芸学校へ。
答 通った都立工芸学校は封建的な上下関係が大変厳しい校風で、僕には合わず行ったり行かなかったりで、結局卒業まで5年かかりました。
問 金属の馬場忠寛さんに師事とありますが、高校を卒業してからですか。
答 高校卒業後に、今はありませんが、東京クラフトデザイン研究所に入学しました。そこで馬場先生とお会いしました。当時学校がごたごたしていて授業をほとんど受けられず、可哀想だというので引き取ってもらった形です。馬場先生は余り弟子を取らない方ですが、3年間最後の内弟子として練馬のご自宅に通いました。鋳金のもの作りを具体的に教えてもらったというより、もの作りの空気を吸わせていただいたと思っています。今考えるとそれが大きな財産になっています。
答 僕の性格からして学校のような教え方をされていたらここまで食いついていかなかったかも知れません。馬場先生は手取り足取り教えてくれる先生ではなかったけれども、背中を見ていて僕の中に引っかかるものがあって。それが何だろうと思い続けて、ここまでやってきたのではないかと思いますね。
問 馬場先生のところを出てからは。
答 当時埼玉県川口市にあった一粒工芸製作所に入りました。鋳物の原型を作る仕事で、量産ものの商品の制作ですね。そこに4年くらいいました。それから同僚と一緒にメタロデザインという会社を作って独立しました。バブル期後半で、川口の工場からモニュメントの仕事依頼が結構ありました。
全国の橋の親柱、欄干、モニュメントの仕事を請け負う
問 具体的に教えて下さい。
答 多かったのは日本全国の橋の親柱と欄干の装飾などです。
依頼は金属メーカーからきます。多かったのは住友軽金属で、デザイナーが市町村縁の花や城、祭り、名物、例えば遡上してくるシャケなどをデザインしてきたのを基に木型を作る、いわゆる木型仕事です。
橋の名前のプレートは全国300件くらいやりました。だいたい地元の市長などが揮毫したものを木型にしてアルミ鋳造します。
後年になりますが、JRの駅のモニュメントもいくつかやりました。東京近郊ではJR川口駅舎上の駅名表示板があります。5メートルのプレートに川口市の市花の百合とキューポラ、蒸気機関車1290形式を配置した表示板で、据え付けまでやらされました(笑い)。
バブルの最後の頃はホテルの内装や個人宅の門扉やフェンスの制作も多く手がけました。
問 仕事の内容が変化してきていますね。
答 その頃から木型屋さんができないものの注文が結構あって、図面がなくて「こんな感じで」と。デザインというよりイメージ、落書きのようなものを持ち込まれて、それを具現化していく仕事が増えてきました。ただ欄干などの透かしには規定があって、子どもの指が入っても抜けなくてはいけないとか、自動車がぶつかっても壊れないようにするため厚さが何ミリ必要とか、デザインは二の次でした。でも図面があるよりもイメージだけの自由造形が面白くて好きになって。それが作家になるきっかけかもしれないですね。
問 川口市から加須市に移転していますね。
答 バブルで川口市もベッドタウン化してきて、鋳物工場の広大な土地をマンション業者が欲しがったんです。工場がどんどん埼玉県の奥地に引っ越して、跡地がマンションになった。それで「仕事があるからこっちへ来いよ」と誘われて加須市に移りました。
ところがすぐにバブルがはじけて仕事がなくなって。子どもができたばかりで、閑なもので随分子育てに励みました(笑い)。その頃からクラフト展に出品したりグループ展をしたりし始めましたね。
動物の美しさ、形態の面白さを鋳金で表現
答 12年前ですね。銀座マーキュリーの室内装飾の仕事を一緒にやった木工作家の藤倉一三に「いいとこがあるから見に来いよ」と言われて、建物は古いけれども音も出せるし環境も良くて。クラフトデザイン協会で一緒だった光本岳士を誘って二人で借りて「アトリエ錬」としてスタートしました。
仲間も増え光本が金工教室を始めて少し知られるようになった頃に、ビルの老朽化で出ることになり、3年前にここに越して来ました。現在は「スタジオ錬」といって、僕と光本、光本の大学(東京学芸大学)の後輩の木寺由布子(鍛金)と生徒3名の計6名の教室兼作業場です。生徒は普段は仕事を持っていて、仕事の傍らここで勉強し作家活動をしています。
問 長島さんの作品を最初に見たのは吉祥寺です。猫をテーマにした作品でした。
答 作品はほとんど動物です。
子どもが小さい頃は、娘たちが分かるものが作る時の基本、最低条件でした。僕がどんなに単純化して作っても子どもたちに「うさぎ」「猫」と言い当てられることが、即多くの人に分かってもらえることだと思っていました。
最初の頃は動物の美しさ、形態の面白さを表現しようと動物に機能を持たせたりしました。例えば照明を作るとして、フクロウの照明があったら可愛い、尻尾が持ち手だったら面白いとかですね。最近それは動物の美しさ、形態の面白さを借りて自分の言いたいことを、置き換えていたんだと思うようになってきました。
問 というと。
答 本当はリアルな人間像を造りたいのだけれども照れがあって、自分の心のうごむくままに形を置き換えたら動物になっていた。動物が自分の心の代弁者になっていると気付いたんです。
最近、年齢もあるのでしょうが、自分の言いたいことを伝えないといけないという思いがあります。例えば物書きは小説にするだろうし、音楽家は音にしますね。僕の場合、動物にする方が相手に分かりやすいと思って作っている。
問 ジャンルを問わず、年齢によって作風が変わってきます。
答 そうですね。僕にとって娘が一番のお客さん、批評家です。娘の成長とともに僕の作品も微妙に変わってきました。娘たちも20歳ともなると厳しくて、単純に分かるようなものでは飽き足らない。「ここはもっとデザイン化した方がいいんじゃない」とか言い出して、それはそれで嬉しいんです。ただ最近は何も言ってくれない(笑い)。
今後はお化けのようなものができるか、人に分からない抽象形態になるか、僕にもどうなるかは分かりません。ただよりスピリチャルになるというか、形が難しくなっていくんじゃないかと思ってもいます。
阿吽の猫を制作、しがらみのない仕事に楽しさ
問 今、一番興味を持っているのは。
答 つい最近、阿吽の猫を作っているときに「楽しいな」と近代まれに見るノリの良さを感じたんですよ。それまでは雑誌社などから「今は猫が売れるから、猫を作って下さい」と言われて、猫はやり尽くした感もあるけれどなんとか作って、作らされている感じがすごくあった。最近はしがらみのない仕事ってすごく楽しいなと思って。売れれば一番いいのですが、まあ貧乏には慣れているのでこれで少しやってこうかなと思っています。
問 阿吽の猫以外には。
答 神話や昔の神社仏閣にいる生き物、それからキトラ古墳の四神獣などを頭に描いていて、それを自分なりに時代に合わせて再構築しようと考えています。
現在、作っているのは麒麟です。想像上の生き物なので、色々文献があって文献ごとに形態が違う。決まっていることが2、3あって、顔が龍で足が鹿だとか、それを守っていれば後は自由です。龍もそうです。そうした想像上のファンタジーな生き物に興味があります。ただ僕の中に決まりがあって悪魔系ではなくて平和系でいきたいと(笑い)。
答 光本と一緒に週一度、20年以上になります。主に養成するのは工業デザイナーです。自分の考えたものを企業にプレゼンしたり、工業デザインはたくさんの条件をクリアして形作っていかなくてはなりません。それでも没個性に陥らず、個性がない限り勝ち残っていけない、ということを教えてくれと言われています。
他の科目の授業はパソコンを操作して3Dで作品作りをしますが、僕らのクラフト系は最初から最後まで自分の手で仕上げることを教えています。頭の中だけで考え、頭でっかちになりがちな若い人たちを途中でおさえる必要があり、そのためにクラフトを教える僕らは(学校に)いさせてもらっていると受けとめています。
欲しい人全員に作品を提供できるのがクラフトだと思う
問 実際に教えていてどうですか。
答 デザインで世界を変えてやるとか、すぐに職人になるとか、仕事の選択肢の発想が極端です。
今、シルバー職人や革細工や靴、鞄を作る職人が媒体でもてはやされて結構人気があるんです。彼らは職人のスタイルに憧れているけど、デザインをかじった人間が職人になると、そういうもの(デザインの発想)を殺さなくてはいけない。2カ月もついていけないと思います。僕らの仕事(クラフト)は面白いよと言っているのだけれども、知名度がないし、よくわかっていない気がします。
問 昨年末、日本クラフトデザイン協会の「日本クラフト展」を見てきましたが、クラフトの定義も変化してきているように感じました。
答 時代の要請や協会会員の変化もあって、クラフトの定義が曖昧になってきていますね。一品もののアートのようなものも入ってきています。
今、巷で木彫のリアル作品が流行っていて、彫刻家の連中がリアルに木彫で動物を作ったりして何十万円もしています。当たり前なのでしょうが、その作品を複数の人が欲しいと言ったときにどうするのか。
金属でも、一品物にこだわって制作している人もいます。しかしクラフトと言った場合、同じものを気に入ってくれた人が複数いたとき、それが一つしかないのは僕的にはアウト、嫌なんですね。それは一貫しています。私のものは100個欲しいと言われればその人たちを全員幸せにできることが使命です。それが僕なりのクラフトの定義です。だから一品ものはあり得ない。厳密に言えば手作りで仕上げていますから表情など微妙に違っていますし、一品もののテイストは必要です。それが僕の条件です。そうじゃないと鋳物の良さは引き出せませんね。
インタビュー・熊田一義 撮影・朝岡吾郎
データ
1957年 |
東京都生まれ |
都立工芸高校、東京クラフトデザイン研究所を経て馬場忠寛氏に師事 |
|
1981年 |
一粒工芸製作所入社 |
1984年 |
同社退職、メタロデザイン設立 |
1989年 | 東洋美術学校プロダクトデザイン科講師 |
1990年 | 銀座マーキュリー内装飾品制作 |
1991年 | ホテルニューオータニ内装飾品制作 |
1992年 | 猫魔ホテル内装飾品制作 西武百貨店アトリエヌーボーで個展 |
1993年 | 東松山ギャルリー亜露麻で個展 |
1997年 | JR矢吹駅前広場「噴水ベンチ」制作 |
1998年 | JR行橋駅コンコースモニュメント制作 |
1999年 |
JR川口駅「駅名レリーフ」制作 |
2000年 |
アトリエ錬設立 |
2010年 |
スタジオ錬設立 |
2013年 |
銀座ACギャラリーで個展を開催 |
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